「隣、いいかな?」
「どうぞ、…ッ?!」

 掛けられた声に何気なく返してその相手を見、僕は絶句した。
何せ我らがババル共和国全権大使、ダミアンさんがにこにこしながら隣りに座っていたのだから。驚きのあまり大使、と叫びそうになった僕にダミアンさんは慌てて手を伸ばす。
「あっ、駄目だよ見つかっちゃうから。しー!」
いや「しー」じゃないでしょうよ、と内心激しく突っ込みながら、それでも言われた通りに黙ってやる。僕に拘らず、このババル大使館職員はダミアンさんに弱い。別に逆らうと怖いわけではなくて、この笑顔に誤魔化されてしまうのだ…。

 今二人が居るのは職員用に設けられた休憩室。といっても、廊下の奥に自販機と長椅子が置いてあるだけの簡素なものだ。それでもここの自販機は余所より安く、品揃えも悪くないので職員からの評判は良い。
 けれども当たり前ながら、ここは大使程の人物が来る場所ではないし、そもそも今の時間、大使は執務室で書類の山と格闘している筈なのだが。
「…サボりですか?」
「え!う、ううん、休憩だよ!!」
 あからさま過ぎる。執務室にはこんな長椅子より遥かに座り心地の良いソファがあるし、茶葉も豆もお茶菓子だって、それなりの質のものが揃っているのだ。
大使がそれらを諦めて、わざわざ一階にあるこの職員休憩室に逃げて来た理由。そんなものは、聞くまでもないが。
「…マニィさん。そんなに怖いんですか?」
「うん…。怒った顔はそれこそ鬼って感じだよ。」
 眉根を下げて困ったように手を擦り合わせるダミアンさんを、哀れと思わざるを得ない。
だって、彼の秘書はあのマニィ・コーチンだ。コードピア時代の醜聞は誰しもが知っていることで、大使の秘書という役職に就いた今でも、彼のことを悪く言う人間は沢山居る。僕はババルになってからこの大使館に入った身だから実は事件を詳しく知らないのだけれど、だからこそ余計に尾鰭の付いた話を信じてしまう。僕は心底ダミアンさんに同情した。
「大変ですね、大使…毎日あんな人と一緒に仕事しなければならないなんて。」

 すると大使は一瞬驚いた顔をして、すぐに苦笑した。
「うーん、いや…大変なのは逆にマニィくんの方だと思うよ。」
「え?」
「だって、考えてもみてごらん?私のサポートだよ?」
 素頓狂な顔をした僕をくすくす笑ってダミアンさんは言う。
「自分で言うのもなんだけど、ミスをしなかった日なんて無いくらいだ。それをフォローして、スケジュールを管理して、尚且つ少ない財源の有効活用をしていかなきゃならないなんて…ゾッとしないかい?」
「はあ…。でも、それが秘書ってものじゃないんですか?仕事なら普通ですよ。」
「君は私のミスの酷さを知らないからそんなことが言えるんだ。……マニィくんは、優秀だよ。」
秘書としても、人としてもね。いやに真剣な顔で言うから、僕は何も言い返せなかった。

 すっかり冷めてしまった珈琲を啜る。安い自販機の珈琲はやはり、冷めると酷く不味かった。隣りでダミアンさんも珈琲を啜って同じく思ったのか、眉を顰めている。
「マニィくんの淹れてくれたやつのほうが、美味しいね。」
「そうなんですか。」
「うん、マニィくんは料理も上手いよ。」
「そう…って、何で料理の腕とか知ってるんですか?」
「だって、私のお昼はマニィくんのお手製弁当だからね」
「…えぇえ?!毎日ですか?!」
「うん。経費削減兼健康管理だって。お得だよねぇ!」
 お手製…?弁当…?にこにことするダミアンさんの横で、僕の中のマニィ・コーチンのイメージが崩れて行く音がした。あれ、悪徳で非情なオトコじゃなかったっけ…?
「も、もしかしてお二人は、凄く仲がよろしいんですか?」
「うーん、少なくとも私は、

「此所でしたか」

 正面から低音が響く。
ダミアンさんの肩が分かりやすく一回、跳ねた。
 横を向いて喋っていた僕は全く気付かなかったのだけれど、目の前にスーツをぴしりと着こなした男が立っていたのだ。恐る恐る視線を上げれば、そこに居たのはそう、噂の。
「まっマニィさん…!ここここんにちは…!!!」
「…大使。職員に迷惑を掛けるなと先日も申しましたが。」
 決死の思いで挨拶をした僕のことをまるで無視だ。酷い。ダミアンさんはダミアンさんで、いつもの笑顔で手を擦り合わせている。僕たちみたいな大使館職員は大抵これで許してしまうのだけれど、流石は有能秘書…表情は一切変わらない。
「迷惑なんて掛けてないよ。ちょっとお喋りしてただけだよ。ね?」
「は、はい!」
「そうですか…」
突然振られて咄嗟に返すと、じろりとした視線が上から降って来た。背があるから威圧感があるし、何より顔が、怖い。
「お喋りはもう済んだでしょう。部屋に戻りますよ、大使。」
「うん。…あ、でもこれ飲んじゃってからでいい?」
 ダミアンさんが手に持ったコーヒー入りの紙コップを示すと、マニィさんは凄く嫌そうな顔をした。
「・・・1分以内ですよ」
そう言い残し、革靴を神経質に鳴らして去って行く。傍らでダミアンさんがほっと息を吐くのが分かった。

「あー…良かった。割と怒ってなかったね。」
「あれで?!」
「うん。あれは普段の顔だよ。」
 あれは…確実に子供が泣くと思うのだが。もしあの人が怒ったら、一体どれ程恐ろしい顔になるというのか。想像すると身震いがした。
「マニィくんはね、あれで優しいんだよ。」
 唐突にダミアンさんが口を開く。視線は手元のコップに注がれていた。コップの中にに写る自分に一つ微笑んで、僕の方を向く。
「…分かり難いのが、残念だけどね。」
「…そう、ですね。」
実際僕には、そうは見えなかったのだから。けれど今日のダミアンさんの話で、僕のマニィさんに対する印象は大分変わった。過去の真偽は知れないけれど、現在、彼はダミアンさんやこのババルにとって少なくとも害のある存在ではない。
…と、思う。
「ていうかダミアンさん、いいんですか?1分…」
「あっ!!!!!」
 僕の時計によると、さっき言い渡されたマニィさんの期限よりもう2分は過ぎている。その旨を報告すると、ダミアンさんは青い顔をして長椅子から立ち上がった。
「じゃ、じゃあ私は行くけど…今日は有り難うね!また来るよ!」
 君も今度執務室に遊びにおいで、なんて言い残して、ダミアンさんは駆け足で去って行った。僕は苦笑いでそれを見送る。(っていうか、来るんだ…?)また怒られるに決まってるのに。

…もしかしたら。

ダミアンさんは迎えに来て欲しくて、わざわざ執務室から脱走してるのかもしれない。
ふと無根拠に、僕はそんなことを思ったのだった。


■エスケープ・エスコート

 

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初っ端から第三者視点とかもうね。手を抜きすぎだと。
でも未だこの人たちの口調に自信がないんだぜ・・・