書類に目を通すのにもいい加減飽きて、気晴しに窓から外を見下ろしてみる。大使館の裏手にはこんもりと樹木が茂っていて、季節ごとの色々で大使館職員の目を楽しませてくれる。初夏の今は爽やかな緑で、なんとなく空気も美味しく感じる程だ。濃淡様々なその色は文字を見飽きた目に優しい。
ふとその緑の中に、立ち上ぼる白を見つける。燻るそれはどうやら煙のようだ。
「……」
 何やらピンときて、ダミアンは足早に階段へと向かうのだった。




■煙草




 足音と気配をなるべく消して、木の影から覗いてみる。幹に寄り掛かったスーツの背中に、やっぱりだと小さく呟いた。
「マニィくん」
「ッ」
気怠げに煙草を燻らせていたマニィは一瞬固まって、錆びた錻力人形のような動きで顔だけをこちらに向けた。珍しく驚いている様子の秘書に、ダミアンはにっこりと笑い掛ける。
「マニィくん。大使館は、」
「全面禁煙、でしたね。申し訳ありません、すぐに」
 そう、数年前からこの大使館では全面禁煙が実施されている。イメージアップでもあるし、何より身体のためだから。秘書に就任してすぐ、マニィはダミアンよりそう言い渡されていた。
アレバスト大使館に比べ規律の少ないこちら側ではあったが、喫煙に関してはババルの方が厳しい。元軍人の職員が多いせいか、アレバストでは全面禁煙とは名ばかり。誰がいつ喫煙しようと見て見ぬ振りが無言のルールであった。
(面倒な人に見つかった)
 内心苛々としながらまだ長いそれを携帯灰皿に押しつけようとするマニィを、しかしダミアンは止めた。
「いや良いよ。そのまま吸ってて」
「は」
「マニィくん、凄く似合ってるから」
煙草。消すのが勿体ないよ。そう言って、真意の読めない顔でダミアンは微笑んでいる。
(喫煙を注意しに来たのではないのか?)
訝しげな視線に、ダミアンは執り成すように緩く頭を振った。
「別に、叱りに来たわけじゃないんだ」
「では、何故」
「えっ…ううん、特に理由はないんだけど」
強いて言うなら、マニィくんに会いたくなったから、かな。悪戯そうに微笑む大使に、マニィは露骨に嫌そうな顔をして見せる。
「あまりプライバシーに干渉し過ぎると煙たがられますよ」
「あはは、肝に銘じておくよ」
 でも、喫煙の罰として。彼にしては珍しい真剣な顔に、マニィも思わず唇を引き結ぶ。
「煙で輪っか、作ってくれないかな!」
「…は」
その想定外過ぎる要求に、思わずマニィは口を開けたまま固まった。けれど大使は動じる様子もなく、にこにこと期待するようにこちらを見詰めている。
「…アナタ、恥はないんですか?大の大人が…」
「無いよ!」
あっけからんと言い放つ上司に頭を抱えかけたが、「だって輪っかを作るマニィくんの方が面白いからね」そう続けられて、ああ確かにこれは罰だと悔しげに唇を噛み締めた。
 まるでコドモのようなリクエストと、それを叶えさせられる自分に呆れつつ、ゆっくりとマニィは紫煙を吸い込んだ。肺に満たし、上を向いてそのまま送り出してやれば上空に綺麗な円が浮かぶ。
ワオ、と嬉しげに歓声を上げたダミアンに侮蔑の視線を送れば、けれども彼は知らぬ顔でにこにこと微笑んで見せた。舌打ちしたいのを堪えて、彼に皮肉げに問い掛ける。
「…これで私は許して頂けるんですかね」
「うん。でも、今回だけだからね」
「肝に銘じておきますよ…」

 この男に付き合うのは骨が折れる。突拍子も無い提案と、真意の読めない笑顔。その裏に何が隠されているのか、或いは隠されていないのか。測り切れないのは、未だ観察が足りないだけだ。
去り際に一度振り返れば、彼は矢張りあのお手本じみた笑顔でこちらに手を振っていた。全く、虫酸が走る。
(あんな男など直ぐに手中に収めてみせる)
誰にでも無く己に誓いながら、マニィは林を後にした。



「やっぱり、だ」
 地面に一つだけ残された、踏み躙った煙草の残骸。本来、こちらが彼の癖なのだろう。携帯灰皿を持出したのはババルに来てかららしい。
 従順な態度、正当な言葉。けれどその端に見え隠れする、性格と言う一言では片付けられない違和感。そう例えば、嫌々やらされる仕事に慣れないうちは、きっと誰しも態度に出る。如何に優秀な人間だとしても。そんな違和感だった。
 自分は、臆病な人間だ。ダミアンはそう自負している。人に嫌われるのが嫌で、憎まれるのが嫌で。
実際そんなことは無いと、分かっている。好きも嫌うも、それなりに縁が深くならないと起こらない感情だ。自分はそこまで人に立ち入るつもりも、また立ち入らせるつもりもない。だから嫌われようも、また特別に好かれようもない筈だった。
けれど、臆病な自分は絶対に嫌われない為に保険を掛けた。絶やさない笑顔は滑稽に見えようとも、害意だけは感じさせない筈、そう思ってのことだ。
 実際この保険は有効だった。
ダミアンの感じる限り、表面上己に敵意や憎悪を向ける存在は居なかった。裏でどう思われているかは知らないが、そればかりはどうしようもない。表面さえ滑らかならば、生きて行くのにさほど支障はない。それに上手く行けば、この笑顔を好意的に取ってくれる人も居る。事実、妙に好かれて困る事もあった程だ。
 しかし、彼は。
何日経とうが何ヶ月経とうが、ダミアンが感じる違和感は消えなかった。マニィが己に向けているのは、何だろう。害意や敵意に似た、けれど少しだけ違う何か。理解出来ない感情にダミアンは悩んだが、それが良いものではないこと位は流石に理解出来た。それならば。
(彼に、懐いてみようか)
少しでも彼が私に好意を抱いてくれさえすれば。状況は変わるかもしれない。そう思っての、過干渉だったのだが。
「君は、懐かせてもくれないのかい」
立ち上ぼる煙と、手にした携帯電話。聞き取れた内容は微かであったが、どうにも不穏な指示で。
未だダミアンの思惑通りに事は進んでいない。どうにか、どうにかして穏便に生きて行きたいのだ、私は。このババルと共に。
「どうしたら、いいのかな」
踏躙られ、ひしゃげた吸い殻に己の未来を見た気がして。
ダミアンは思わず身震いした。



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なんという殺伐\(^q^)/